結婚したばかりで、子どもはまだ良いかなと思いながら、看護師としてバリバリ働いていました。妊娠6週ごろ、なんとなく予感がして病院で調べてもらったところ妊娠がわかりました。しかし、そのころすでに大食漢だったわたしが一人前以下しか食べられなくなっていました。
それから妊娠8週を過ぎた辺りから、朝は運転できないほどの吐き気に襲われるようになり、仕事はしばらくお休みすることに。しかし、自宅で安静に過ごしていましたが、どんどん吐き気は強くなり、食事は全くとれず、口にいれたのはポカリをペットボトル半分だけという日が続きました。
妊娠10週ごろ、仕事から帰った夫が私の顔色を見て「これはまずい」と思ったのか、夜間でしたが病院に連絡してくれ、入院になりますので来てくださいと指示がありました。病棟へつくと、まずは血液・尿検査、点滴を始めました。当直の先生から、全く食事が取れない状況なので、すこしでも食事がとれて、家でも様子が見られるようになったら退院ですと説明がありました。
一応赤ちゃんの状態を見てみようということになり、経腟エコーをして、赤ちゃんが元気であることは確認できました。それから1日2000mlの輸液を始めて、飲水量と尿量をはかって記録するように指導を受けました。そして、食事は1-2日分を食べられればとらなくても良いということになりました。
ちょうど、入院したのはクリスマスの頃でした。新婚ではじめてのクリスマスで、夫にクリスマスプレゼントも準備していたのに、入院になってしまったことが正直非常にショックを受けていました。吐き気があってどっちにしろ満足には食べられませんが、ケーキのひとつも食べられないなんて悲しいな、と思っていました。
しかし、クリスマスイブの夕食は、クリスマスっぽいメニューになっていて、かなりうれしかったです。チキン、スープ、ピラフなど、工夫されていました。そして、小さいロールケーキがついていて、一口でもケーキが食べられることが本当に嬉しく感じました。食事と一緒に、折り紙で折ったサンタさんがついてきて、こんなに手間をかけて準備してくれているんだな、と栄養課のみなさんに頭が下がる思いでした。
入院して調子が悪く何もすることができない状況で、食欲はないにしても、3食出てくる食事がこんなに楽しみになるなんて思っていなかったので、本当にありがたいと思いました。看護師として働いていたころには患者さんが食べる量などを見るだけだったので、新鮮に感じました。
また、病院にほぼ毎日来ているフェイスメディカルさんなどの医療機器販売業者の方もばったり会ったのですが、私が制服を着ていなかったことに驚いていましたが、声を掛けてくれたので勇気づけられました。母や妹もちょくちょくお見舞いに来て励ましてくれたので、気分の悪さにも負けず、どうにかがんばることが出来ました。
夫が朝早くから夜遅くまで仕事をしていて、面会時間の間に来れたことが一回もなかったことに気を揉みました。夫の仕事も早く帰れないのは仕方ないことであるし、面会時間が決められているのも患者さんたちの安静のため、防犯のためなので仕方ないのですが、遅い時間に荷物を持ってきてくれる夫にも、少しだけなら良いですよと笑顔でいてくれる看護師にも、大変申し訳ない気持ちになりました。
産婦人科病棟なので、当然夜中も赤ちゃんの泣き声が聞こえることがあるのですが、夜中に泣いているのを聞いて、私もいつかこういう日が来るけど、こんな私にも育児ができるのかと不安になることが多かったです。今考えると、必要以上に不安になっていたので、若干マタニティブルーのような感じだったのだと思いますが、本気で不安になってしまい、何度か夜中に怖くなって泣いてしまうことがありました。
看護師たちは泣いていることは知らないですが、産後のことについて話したり、こまめに話を聞いてくれたので、心が楽になりました。看護師なりの知識は持っていたのに、やっぱり自分が患者の立場になってみないとわからないこともたくさんあると思いました。
水, 3月 24 2021 » »
子供を妊娠中に、「絨毛膜下血腫」というものになりました。これは、子宮の中に血の塊ができてしまって、それが大きくなってしまうと赤ちゃんが危ないというものです。出血をたくさんしていたため、救急車で運ばれてそのまま入院することになりました。出血した時は羊水が流れるような感じの生暖かいものがたくさん出てきて、初めて自分で救急車を呼びました。とても怖かったですし心配でした。夫もいない時に一人でいるときにそうなりました。
病院に行った時の処置は、まず担架で運ばれて、朝方だったので人はあまりいなくて、ベッドの診察台におかれました。そして、夜勤の先生かわかりませんが、眼鏡をかけた年輩の男の先生が来て、地でぬれたズボンのままでいるのを看護士さんが履き替えてくれてそのまま見てもらいました。
そしてエコーか何かを見て、血腫があるということがわかりました。たいてい数センチのもののようなのですが、私は十センチくらいあったので様子見ということでそのまま入院することになりました。しかし、一度入院する前に家に帰されて、家の中で安静にしているように言われたのですが、家には兄弟もいるので安静にすることができなくて入院することになりました。
入院中に驚いたことは、同じ室内に同じような感じで入院してきた人がいたということです。また、心が温かくなるエピソードは、その入院していた室内の人がカーテンを開けてみんなで話そうというような感じの雰囲気にしてくれて、そのまま話すことができました。なかなか勇気がなければできないと思うのですが、とても気持ちのいい入院患者さんばかりで自分一人でつらい思いをしなくて済んだといいますか、いろいろな気持ちをご飯を食べるときなどに分かち合って一人ではないんだという気持ちになりました。
ふつうはカーテン越しに一人でいるのでつらいのですが、やっぱり一人でいることがとてもしんどかったので、いい部屋に通されたと感じました。食事も一人ではなくみんなで会話しながら食べていたので心配事が無くなりました。約二か月間の入院でしたので長かったです。とても不安になることが多かったですが、同じ病室の人と話ができたことで救われました。
入院中はだんなが仕事を時短にしたり、私の母や妹が家に来て子供の面倒を見てくれました。小学生なのである程度はできますが、さすがにひとりで夜まで留守番させるわけにもいかないので、ママ友などにも助けてもらいながら2ヶ月たくさんの人にお世話になりました。子供も一生懸命我慢したことも多かったようですが、買い物へ行ったり、洗濯ものを畳んだり、掃除機をかけたり、ごはんまで炊けるようになるなど、ひとりでできることが多くなったので、成長に感動しました。
入院中に怖かったことは、出血がなかなか収まらなかったことです。また、困ったことは、動いてはいけなかったので、じっとして耐えることが本当に大変でした。看護士さんが皆優しくて、夜勤もあって大変なのにとてもいい雰囲気だったのは良かったです。とてもいい看護士さんばかりでした。私がつらいことがあるとそのことに対して色々な声掛けをしてくれましたし、励ましてくれました。
入院したのはこれが初めてだったので、入院生活ってこんな感じなのだということがわかりました。とても心に残る入院生活でした。特に毎日「おはようございます」という看護士さんの一言だけでも気持ちが救われることがありました。薬を見ながら毎日格闘でしたので、とてもその言葉で励まされました。薬を多く飲んでいましたがだんだん少なくなって快方に向かって良かったです。薬が変わるたびに看護士さんが細やかに体調を気にしてくださったので、安心して過ごすことが出来ました。
水, 2月 10 2021 » »
20代後半で妊娠初期に原因不明の感染症にかかりました。理由のわからない寒気と腹痛がするので布団に入っていました。冬で気温が低かったので風邪かと思ったのですが、次第に腹痛が強くなり、出血が起こったので、夜中でしたがかかりつけの総合病院に連絡し、救急で受診しました。3日前に産婦人科で検診を受けたばかりで、特に体調に問題はないようでしたが、この腹痛はかなり痛みが強く、出血もあるのでただごとではないと感じました。
だんなが帰宅すると顔面蒼白の私を見て慌てて車の準備をして夜中に総合病院へ向かい、すぐに受診を受けると切迫流産の可能性があるので緊急入院することになりました。流産を予防する点滴を受けて病室で寝ていましたが、腹痛はとまらず、その後高熱も出ました。先生からは血液検査をしたところ、白血球の数値が異常に高く、なんらかの菌が感染しているのではないか、と言われました。
流産を予防する薬を点滴しても腹痛と出血は止まらず、熱はどんどん上がっていき、40度を超えていました。解熱剤の座薬を何度か入れてもらいましたが、熱は全く下がりませんでした。腹痛は生理痛のような痛みで、流産するのではないかという恐怖もありましたが、高熱で激しい悪寒と体が硬直する感じに耐えながら、頑張ろうと思いました。しかしながら看護師さんからは「薬が効かないから、もしかするとだめかもしれないけどね」とも言われていました。
入院中に驚いたことは、病棟が古いためか、病棟に設置されている給湯室にゴキブリがたくさんいたことです。症状が治まり動けるようになってから、夜に廊下に設置されている給湯室に行きました。消灯されている給湯室の電気をつけ明るくなったとたん、一斉にさーっと逃げ隠れたのを見てしまいました。10匹以上はいたのですが、さすがに病院なので衛生管理は大丈夫なのか気になってしまいました。
今回の入院では流産してしまったので、つらいことのほうが多く、心が温かくなるような気持ちの余裕はほとんどありませんでした。しかし桃の節句にあたったため、食事に白飯ではなくちらし寿司が出たことがありました。普段食べるちらし寿司とは異なり、栄養面を重視して刻んだ高野豆腐が大量に入っていたことが印象的です。その時はあまり美味しいと思えませんでしたが、あとから思えば入院食に行事食が入っていたことや患者のために栄養強化されていた配慮には、少し心も温かくなりました。
妊娠3か月に入り3日前に初めて胎児の人間らしい形を画像で見て喜んでいたところだったので、どうしてこんなことになってしまうのか驚きましたし、状況がなかなか呑み込めませんでした。しかも体験したことのない高熱と痛みで、とても苦しい3日間でした。結局流産してしまい、流産すると嘘のように熱と腹痛も消えてしまいました。
その後はしばらく入院していましたが、相部屋で隣のベッドに入院していた骨折の患者さんが気を利かしてナースコールを押してくれたことがありがたかったです。41℃近い熱が出ていた時、とても寒いのですがナースコールを押したくても寒気で体が激しく震えるため、体が動きませんでした。そのことに気付いて代わりに看護師さんを呼んでくれ、処置をしてもらえたので助かりました。
病室ではお互いに具合が悪い者同士にも関わらず、健康な見舞客や看護師さんでも気づかない部分に気付いて行動を起こしてくれたことに感動しました。女性同士なので、自分も落ち着いてくると自然と少しづつ話すようになり、話すことで徐々に気持ちにも整理がついたと思います。今では2児の母になり、二人にももう少し大きくなったら兄弟がいたことを伝えたいと思っています。
水, 1月 27 2021 » »
ある時から気が付くと月に必ず来る生理がおくれており、もしかしてと思い産婦人科へ行きました。病院から1週間後など、定期的に検診をお願いされて、妊娠が発覚してからこまめに婦人科に通院していました。肌荒れや気持ち悪さや体調不良の波があったものの、ある時期からその改善を感じたため、まさかと思ったものの、二度に渡る経過観察により流産していると確定しました。係留物がまだ子宮に残っているので、それを掻き出す手術をしなければならなくなりました。
大変お気の毒ですが、子宮の掻把手術をしましょう、と端的に話されました。詳しくは自分でネットを使って調べました。事前に血液検査と尿検査、エコーをやったけれども残念ですが、流産しているということで、1泊2日の入院手術に決定しました。手術に関する全身麻酔や、処置後の通院の手順などが書かれた書類を渡されました。
予約当日、初産で産道が狭いために、子宮口を広げる処置をしました。受付をすませ専用の衣服に着替えをしました。通常の検診や診察をする場所に案内され、血圧計、点滴とそのための注射カテーテルをしました。水分を含んだら徐々に広がるという器具を挿入するために検査台に乗り、患部をよく見るための装置の設置や洗浄をされ、処置をしたあと、そのまま病棟に移動して入院の流れとなりました。
手術前の子宮口を広げる処置で、ぜんぜん痛くないから力を抜くように何度も言われたのですが、ものすごく痛みがありました。器具の処置をしているときに自分でも見たことがないような数値の血圧の上がり方をしていたので驚きました。今までしたことのないような叫び声を何度も痛い痛いとあげている自分自身に、どこか遠くで私はこんなふうに叫ぶこともあるのだ、と冷静に驚愕している自分もいて、最中なのに客観的視点ができるものなのかと思いました。
終わったあとも体験したことのないずきずきとした痛みや、他人の会話があまりにも耳障りで、こんなにも余裕がないのかと感じました。こんなにつらいのだからもう大丈夫だろうと考えていたのに、思ったほど子宮口が広がっていなかったからと手術当日の朝さらに器具を挿入されてまだやるのかと驚愕しました。
全身麻酔をやることが初めてだったのですが、終わった後よく寝たとかいう時間間隔が全くなく、覚醒した瞬間になぜか時計の針が進んでいて驚きました。目が覚めてもうつらうつらと眠気が襲い、はっきり目が覚めるまでに時間がかかりました。
ピーナッツの入っているものを食べたり、においをかぐと気持ち悪くなってしまう体質を持っており、そのことを伝えると、書面でのやり取りで終わりでなく、わざわざ病室まで調理責任者がヒアリングにきたのでここまでするのかと感動しました。出てきた食事は味が薄めで健康的ではあるものの、品数も多く思っていたよりもゴージャスで感動しました。数年後に無事に出産もしたのですが、やっぱり同じように立派な食事が出たので、出産後は体力を消耗するので、そういうものだと感じました。
点滴や処置をして入院着を着ている状態だったので、お手洗いに行くことや座る、しゃがむ、寝転がるといったひとつひとつの動作が痛みや制限があったのが大変でした。特に見舞いや付き添いといった人がいなかったので、このままで大丈夫なのだろうかと漠然とした恐怖がありました。
たまたま同じ病室になった隣の方が、当日ベッドに寝ており病状により点滴のみで入院している様子でした。かわるがわるお見舞いの人物が現れて話をしていったので、入院となるとそんなに皆が心配したり応援をしたり物を届けたりするために集まってくるものなのなのかと、人情的なものを感じました。
金, 12月 25 2020 » »
気まぐれに乳がんの触診を自己流でしていました。ある日、寝る前に久しぶりに触診をしていると、しこりのようなものがありました。まさか、と思いながら過ごしているときに、隣の席の同僚が大腸の検査をして、腸の写真を見せてきました。そのとき、何となく検査した方がいいかな、と思いつき、すぐに電話で予約をしました。
でも、まさかがんではないと思っていました。翌日検査に行き、マンモグラフィー、超音波検査を行いました。「これは違うよ」と言われると思っていましたが、「悪性腫瘍の可能性があります。」と言われました。細胞を採取している間は怖くて、ずっと泣いていました。3週間後、乳がんと告知されました。
がんが分かったとき離島に住んでいて、手術ができる病院に行くには飛行機で通わないといけないと言われました。実家が東京なので、東京の病院に決めましたが「この病院だと手術が3か月後になりますよ。なぜわざわざ東京に」と言われ、冷たい印象を受けました。手術できる病院が近くにないこと、東京に引っ越す予定があることを説明しました。
担当は他の先生になり、手術まではホルモン療法で大きくしないようにし、部分切除することになりました。入院前に採血、麻酔科の説明、歯科検診などがありました。歯のかぶせものが取れたところがあるので、手術までの間に歯科医で治療してもらいました。
コロナウイルスの影響で手術ができるかも危うく、家族との面会も不可でした。ですので、他の患者さんともあまりお話する雰囲気ではありませんでした。ですが、病室が8階で窓際だったので気が滅入ることもありませんでした。特に、東京タワーが医療従事者への感謝の気持ちを込めてブルーに点灯していたときは、看護師さんにもお知らせし、病室の人みんなで見ました。自然と、皆さんから看護師さんへの感謝の言葉が出てきて、コロナの影響でピリピリしていた中でほっとした瞬間でした。
また、丹沢の山々が見えたので富士山も見えるはず、と思って探していたら「今日は富士山が見えないわね」と声をかけられました。長く入院されている様子の方でした。翌朝、富士山がきれいに見えたとき、「富士山きれいに見えるわよ」と教えてくださいました。大雨のあとで龍のような雲が出ていたときにも、病室の人に声をかけて一緒に見ました。たぶん皆さん家族と面会できず不安だったと思いますが、それを共有することができました。
一番怖かったのは飢えへの恐怖です。手術前日の夜9時から、当日の昼食まで食事をとってはいけなかったので、大食いの私にとってはとても不安でした。病院内にコンビニエンスストアはありますが、コロナウイルスの影響であまり出歩くわけにいかないので、入院前にお菓子を買い込んでいました。手術前日の夕食後、8時頃からお菓子をたくさん食べましたが、不安で不安で仕方がなかったです。おにぎりなど、おなかに溜まるものを買っておけば良かったと思いました。手術当日朝一の手術だったので、もう飢えへの恐怖はありませんでした。
手術の立ち会いは可能でしたが、断ったので一人で手術を受けることになりました。私よりも若い看護師や麻酔科医がてきぱきと働いていることに感動を覚えました。すぐに麻酔が利いて、寝て起きたら手術が終わっていました。病室に戻ってからは目が冴えて、眠れないけど体が動かせないのが困りました。
呼吸器をつけているのでスマホや本に触ることもできず、あまり腰が痛いので少しずつ体を動かして時間が過ぎるのを待ちました。午後には呼吸器が外れて、飲食も許されたのでまた買い込んだお菓子を食べました。安心したこともあり、何を食べても美味しく感じられました。
木, 12月 10 2020 » »